w/ 017 FK
type: image / space
function: residence
location: fukuyama, japan
area: 1000m2(site)140m2(floor)
collaborator: coming soon
/
「はじめに機能がある」と「はじめに空間がある」
生活を伝統と進歩との、私的なものと社会的なものとの交錯した抵抗的な発展として、動的に見る立場からすれば、空間における限定性と無限定性ー秩序と自由ー、時代性と永遠性ー短期と長期ーの問題に目を向けなければならないであろう。生活を進歩の、あるいは近代主義化の一すじのものと抽象し、そこに現われる生活機能の分化を生活そのものと考え、それに沿って生活空間をますます限定化してゆこうとする傾向は、またそこには、内部機能の素朴な表現がともなっていることが多いのであるが、素朴な近代主義=機能主義のなかに、きわめて濃く、あらわれているところである。とくにその限定された空間の結合の仕方のなかには、偶然的なものが、普遍的なものと同時に現われがちである。
それにひきかえ過去の、住居、とくに農家や町屋にあらわれたすぐれた典型となった住居の伝統のなかには、この空間の限定性=無限定性が、たくみな輪となって、生活を包容していたことがよくわかるだろう。
かつて、このような住居は封建的と呼ばれた。私は、それはその中で行なわれていた生活機能の、また生活意識の封建制であって、その生活空間そのものが一義的に封建的であるのではないと考えたいのである。私の考えを先取的にいうならば、機能と空間の対応は一義的であるのではないのである。
「はじめに機能がある」とする立場と「はじめに空間がある」とする立場は、一見全く相反したもののように思われる。
この「はじめに機能がある」とする見方は、認識として本質的であり、また「はじめに空間がある」とすることは、存在として根源的である。素朴な機能主義の立場からは見失われていた、この「はじめに空間がある」とする根源的なとらえかたは、ふたたびよびさまされる必要がある。
空間は本来、限定性と無限定性の統一である。また生活も、認識としては機能であり、またその分化が考えられるが、存在としては動的である。それは、すでにいったように抵抗的交錯として動的であり、また生物学的に流動である。
このような、建築空間と生活機能の対応が、建築創造の課題であるといいうるのである。私は、建築創造の立場から、この二つの空間と機能とは、互いに対応すべきものでありながら、しかも決して一義的に対応しないものであり、それぞれが独立に本質的であり、根源的であると考えたいのである。
そうして「はじめに機能がある」立場と、「はじめに空間がある」立場とは、建築創造においてはじめて統一されるのである。
(新建築、1955-1の文章に加筆)
Text: K**** T****
文:現実と創造 丹下健三 1946-1958、美術出版社、1966年、100頁